大衆社会の「ウサギとカメ」理論

あなたはウサギとカメの競走をご存知だろうか。ウサギはカメよりもずっと早く走れるが、途中で休んだために、カメに負けてしまったという話である。この原因の捉え方には、ウサギは怠け者でカメは働き者であったという捉え方のほかに、ウサギとカメとでは目指していたものが違ったという捉え方もある。つまり、カメはゴールを目指して走っていたが、ウサギはカメを見て走っていたということだ。

私は、この後者の捉え方の中に大衆社会の状況を見た。つまり、大衆は本質を見極めて動こうとするのではなく、周りを見て動こうとしているということである。

地球温暖化を例にとって考えてみよう。日本人のほとんどが、「地球温暖化が進行している、二酸化炭素の排出量を減らさねばならない」と考えているだろう。しかし、実はこの理論とは逆に、「地球温暖化は進行していない」と見る理論があることを皆さんはご存知だろうか。私はどちらの理論が正しいかを論じようとしているのではない。私たちは、状況を自ら判断しようとはせず、ただ「温暖化が進行しているといわれているから、きっと進行しているのだろう」という見方しか出来ていないのだ。確かに、私たちは専門家ではないから、数値を自ら分析することなどできはしない。この意味で、本質を捉えることなど出来はしないであろうが、少なくとも一般の考え方とは逆の考え方についても分析してみるということは大切なことであろう。

この大衆化現象は大きな危険性を秘めている。そのひとつが政治である。私たちには日本国憲法の下、主権が国民に存することが保障されている。しかし、大衆化現象はこの国民主権を脅かす恐れを秘めている。つまり、政治が新聞、テレビといったメディアに握られてしまうという危険性をはらんでいるのだ。そして、メディアをうまく利用した政党が権力を獲得し、独裁政党となってしまうということがありえないと言い切れるであろうか。

この情報化時代において、私たちは欲しいとさえ思えば膨大な情報が手に入る。その情報を自ら取捨選択し、十分に吟味し、そして自らの基準をもって判断することが出来る環境が私たちの手元にあるのだ。私たちが自ら判断しようと思えば、判断するための材料は十分に用意されているのだ。その一方で、私たちは判断を周囲に委ねようとしているとは、なんたる皮肉であろうか。

森鴎外に『杯』という作品があるが、その中で西洋娘は、小さな杯であっても自らの杯で水を飲んだ。この作品は、小さいものであったとしても自分自身の文学を酌もうという鴎外の意志の現れであるが、私たちも同じように、たとえ完全でない杯であったとしても、自らの杯をもって物事を判断しようという意志が必要なのではないだろうか。



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