花瓶に挿した彼岸花の向こうの乙女
この秋、私はこのような句を詠みたくなった。しかし、日本人の彼岸花に対する「死・不吉」というイメージを考えると、この歌に与える表現について悩まずにはいられなかった。
“真っ赤な美しい彼岸花の向こうに居る、彼岸花のように美しい女性。そして、花瓶によって隔てられた微妙な距離感。”
私はこのようなこと表現したいと思ったのだが、どうも彼岸花ということばを用いて表現するのは望ましくないように思われたのである。場合によっては、「恋人と死に別れてしまった」と解されることもあるかもしれない。
表現とは、まさしくこのようなことを考えることではないだろうか。
表現(殊に詩における表現)とは、筆者と読者との間に、共通のイメージを通して感情を共有することなのである。
イメージの違いによって生じる誤解(たとえ、注釈がつけてあったとしても、潜在的に存在するイメージの違い)というものは、特に異なる文化圏の間で生じやすい。
先に挙げた彼岸花について、欧州ではもとより美しい華として解され、不吉というイメージは伴わないようである。したがって、Lycorisと表現されたものを日本語に訳す際に彼岸花と表現するのでは、日本人に思い起こさせるイメージというのは、もとのそれとは異なるものになってしまうかもしれない。したがって、「リコリス」と直しておくにとどめたほうがむしろ良訳と言えるであろう。
日本語でも可能な表現をわざわざ外国語で表現することの利点のひとつはここにある。
(日本人の間に定着し、日本語よりもむしろ理解されやすいという理由で用いられることの方が圧倒的に多いようではあるが。)
ここで、私は先の句をこのように直す。
花瓶に挿したリコリスの向こうの乙女
“リコリス…彼岸花のこと”
と注をつけねばならないであろうが、リコリスと表現することによって、「死・不吉」といったイメージは、幾分かはやわらげられるであろう。