個性という名の仮面

私たちはしばしば、「個性を尊重しよう」だとか、「個性的であるべきだ」だとかいったことを耳にする。人々が個人としての立場を失ってきたこの大衆社会の中で、個性を尊重し、個人の権威を回復していこうとする動きが生まれたのは必然的なことであり、大変喜ばしいことである。しかし、その一方で「個性的でなければならない」といういわば強迫観念のようなものによって、私たちは個性的であることを否定されているように感じられてならないのである。

「個性的であるべきだ」というような物の言い方は、個人を尊重しようという本来の意図から外れ、逆に個性を否定するものである。この言葉は、「個性的でない」と一般に思われるような個性を否定する言葉であり、相手の価値観を自らの価値観へと書き換えようとする意図さえ、実際には含まれているかのように思われるのだ。したがって、この意味での個性を強調することは、結果的に個性的であるという個人が本来持っているはずの権利を奪ってしまうことになり兼ねないのだ。

では、個性はいったいどこに存在するのか。

それは、個性を求めずとも個人の中に確かに存在するのだ。「個性的である」ということだけが個性なのではい。そして、「個性的でない」ということは個性がないということではない。このことを十分に理解せずに、個性を語るべきではない。すべての個性をそれ自体として受け入れること、それが真に個人を尊重するということなのである。

では、私たちはたとえ自身の個性を愛することが出来なかったとしても、その個性にしがみついて生きるべきだということであろうか。

いや、そうではない。私たちの個性というのは、単にその一時点における個性に過ぎないものなのだ。そして、それは流動性に富んだものであり、簡単に大きな変化を得ることが出来るものではないが、小さな変化は絶えず行われており、そしてその変化というのは、私たちの意志に大いに左右されるものなのだ。

しかし、その一方で世間の大勢が持つ価値観に左右されることで、真に個性のある個人が、世間において「個性がある」と評されるに過ぎぬ個人へと堕落してしまうことも容易に起こりうるのである。



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